研究紹介

インタビュー

キャリアも研究も、いつもゼロスタートから

永瀬所長のキャリアのスタートは外科医だった。小児がん(神経芽腫)や胆道閉鎖症による肝移植の子どもたちを担当したが、当時の小児がんは外科治療だけでは治せないという現実に直面。臨床医を5年経験したのち、研究者に転身した。以後、20年以上にわたる研究生活において自分は人との出会いに恵まれたと、永瀬所長は振り返る。

「臨床医をやめたあと、当時最も進んでいた癌研の中村祐輔先生の門を叩きました。APC遺伝子をはじめとするがん遺伝子の研究に取り組み、スコットランドのグラスゴーにある研究所アラン・バルメイン教授のもとに留学しました。当時彼の地にはダンディ大学にデイビッド・レーンがいたし、全米臨床がん学会の会長を務めたフランク・マコーミックとは、彼がスコットランド出身という縁で知りあえた。フランクがカリフォルニアでオニックス製薬会社(ONYX)を興すと、スコットランドにいたぼくをマウスの遺伝学をやりたいなら来ないかと、同社のプロジェクトリーダーとして幹部扱いで迎えてくれたのです」

当時のオニックス社は、バイエルン薬品の出資を受けてソラフェニブという腎臓がんの分子標的薬を開発中で、マウスの前臨床試験に関わるなど、創薬開発研究の現場に立ちあうことができた。その後、カリフォルニア大学に助教授の職を得たのも、サンフランシスコにがんセンターができた際にセンターに誘われたのも、バルメイン氏とマコーミック氏が声をかけてくれたからだという。滞米8年が過ぎ、ニューヨーク州立大学准教授に就いた永瀬氏のもとに、日本の中村祐輔先生から帰国を打診する連絡がきた。

「中村先生に帰ってくるよう言われたら、断るわけにはいきません(笑)。とはいえ、すでにニューヨーク州立大学との契約がありましたし、帰国はあくまで一時的なものですぐアメリカに戻るつもりでした。むこうに骨を埋めるつもりでしたから」

帰国するなり、中村先生に日大大学院の研究室の職を打診されてしまった。悩んだ末に、しばらくは日米を往復する生活をつづけた。現職に就いたのが2010年9月。アメリカに戻るという思いは完全に断ち切っているという。

「医者から研究者になるときも、海外へいくときもゼロからのスタートでした。新天地へいくたびに‘持っていく’人のほうが多いと思いますが、ぼくの場合はいろいろ事情もあって、その環境が維持できなかった。この研究所に来るきっかけも中村先生、そして千葉県がんセンター長の中川原章先生でしたが、そのときも先生から『ゼロからでいいか?』と聞かれて、『いいですよ』と返事をしました。もちろん頭の中には、それまで積み上げた知的財産が残っています」

帰国後は、専門である遺伝学的な知識とアメリカの製薬会社で得た化学知識をいかして、がん治療薬をつくれないかと考えつづけていた。そんなころ、当時在籍していた日大医学部の福田昇教授の紹介で、京都大学の杉山弘教授との出会いがあり、いまでは共同で創薬開発に取り組める関係だ。

永瀬 浩喜

注釈
【デイビッド・レーン】
David Lane
がん抑制遺伝子p53をアメリカとの共同で1973年に発見

【ソラフェニブ】
2005年に販売された経口抗がん剤、商品名ネクサバール