研究紹介

がん幹細胞を維持する機構を解明し、悪性乳がんの治療法開発を目指す 井上 純一郎 がんの根治を難しくしている要因として、がん細胞の親玉である「がん幹細胞」の存在が、近年明らかになってきた。井上教授は、悪性で有効な治療標的分子がまだ見つかっていないBasal-like乳がんにおいて、NF-κBというタンパク質が、がん幹細胞の維持に重要な役割を果たしていることを明らかにした。この分子メカニズムを明らかにし、乳がん幹細胞を狙い打つ新規治療法の開発を目指している。
がん細胞では転写因子NF-κBが恒常的に活性化している

私たちの体は約60兆個の細胞から構成されている。個々の細胞は、他の細胞と情報をやり取りしており、また、他の細胞から受け取った情報は細胞内へと伝えられる。このような情報伝達のしくみを「シグナル伝達」という。シグナル伝達はタンパク質を介して行われ、細胞間や細胞内では、たくさんのタンパク質がリレーのようにシグナルの受け渡しを行っている。シグナルは最終的に転写因子に伝えられ、特定の遺伝子が発現して、その細胞の運命が決まる。

「NF-κBは転写因子として働くタンパク質で、免疫応答や炎症、細胞増殖や細胞死などにかかわる遺伝子の発現を調節しています。ほとんどの正常細胞において、NF-κBは不活性化状態にあり、何か刺激がくると一過性に活性化しますが、しばらくすると元の不活性化状態に戻ります。ところが興味深いことに、多くのがん細胞では、NF-κBの活性化が正常細胞より高かったり、その活性化が長く持続したりすることがわかっています。私たちは、NF-κBの恒常的な活性化が見られるがんのうち乳がんに注目して、NF-κBとがんの関係を調べています」と井上教授は話す。

乳がんは、がん細胞の起源の違いによって、Luminal-like(管腔様)乳がん、ERBB2過剰発現乳がん、Basal-like(基底様)乳がん、Claudin-low(低クローディン)乳がんの4種類に分けられる。Luminal-like乳がんは、エストロゲン受容体やプロゲステロン受容体ががん細胞に発現しているのが特徴で、ホルモン療法が有効になる。ERBB2過剰発現乳がんはERBB2 (HER2)というタンパク質ががん細胞に発現しており、ERBB2を分子標的としたハーセプチンという薬が治療効果をあげている。ところが、Basal-like乳がんとClaudin-low乳がんは、エストロゲン受容体もプロゲステロン受容体もHER2も発現していないため、「トリプルネガティブ乳がん」と呼ばれ、治療法が確立されておらず、一般的に悪性度が高いといわれている。

「私たちは、トリプルネガティブ乳がんにおいて、NF-κBが恒常的に高い活性を示すことを明らかにしました。NF-κBの活性化にかかわるタンパク質は、トリプルネガティブ乳がんの治療標的になる可能性があることから、NF-κBのシグナル伝達の分子機構を明らかにし、がんとの関係を調べています」

【NF-κBのシグナル伝達機構】

ふだん、NF-κBはIκBと結合し、複合体を形成して細胞質内に留まっているが、細胞が刺激を受けると、複合体中のIκB(図中ではIκBα)がリン酸化(図中のP)される。それを目印にポリユビキチン化(ユビキチンは図中のUb)が起こり、IκB が分解される。その結果、NF-κBはIκBから解放されて核内に移動し、遺伝子の発現を促す。最近、井上教授らは、NF-κBの活性化を負に制御するp47というタンパク質を同定した。また、NF-κBが恒常的に活性化している成人T細胞白血病(ATL)細胞において、p47の発現が低下していることも明らかにしている。

井上 純一郎
井上 純一郎(いのうえ じゅんいちろう)
東京大学 医科学研究所 分子発癌分野 教授

1979年 東京大学薬学部薬学科卒業
1984年 東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了(薬学博士取得)
1984年 (財)癌研究会癌研究所ウイルス腫瘍部嘱託研究員
1985年 (財)癌研究会癌研究所ウイルス腫瘍部研究員
1989年~1992年 米国ソーク研究所留学
1992年 (財)癌研究会癌研究所実験病理部研究員
1993年 東京大学医科学研究所制癌研究部助教授
1994年~1998年 岡崎国立共同研究機構助教授生理学研究所併任
2000年 慶応義塾大学理工学部応用化学科教授
2002年 東京大学医科学研究所分子発癌分野教授(現職)
2006年~2007年 東大総長補佐
2007年~2011年 医科学研究所副所長
2008年 日本学術会議連携会員
2012年 アジア感染症研究拠点北京研究センター長

注釈
【転写因子】
DNA上の特定の領域に結合するタンパク質で、転写(DNAからRNAを合成すること)を制御する。

【クローディン】
細胞膜に存在するタンパク質で、上皮細胞どうしを強く接着する働きをもつ。