研究紹介

インタビュー

いまこそ着手すべきは「低線量率放射線影響の研究」

放射性ヨウ素131は半減期が短く、現在の福島ではほとんど検知されない。セシウム137は半減期が長いためいつまでも検出され、福島以外の地でも、いわゆるホットポイントとして検出されて大騒ぎになった。「では、そのセシウム137でがんになるかといえば、それはないと考えています。でも‘なりません’と言っても、みなさん納得してくださらない」

「福島の場合、線量と線量率という2つの面から考えていかないと非常に混乱します。実は専門家とおっしゃる人のなかでも、線量と線量率をきちんと区別しないで議論する人は多いのですよ」と稲葉教授は言う。「これは移動距離(線量)と速度(線量率)にたとえると分かりやすいかもしれません。飛行機や新幹線は速いですので、長距離でも短時間で移動できますし、短距離なら一瞬です。一方、徒歩は遅いですが、松尾芭蕉は徒歩で大旅行したわけですから、時間さえかければ長距離を移動できます」

高い線量率では、短時間でも大きな線量になるし、100分の1秒とか時間をしぼれば、ごく少ない線量をかけることも可能。レントゲン撮影などはこれ。広島・長崎やチェルノブイリも高い線量率に属する。

一方、福島で問題になっているのは、低い線量率。短時間では線量も低いが、長年の間に結構な蓄積線量になる可能性がある。

【線量率と線量の関連を示す図】
線量率と線量の関連を示す図

上の図で、低線量率・低線量と書いたところが、ふだんわれわれが暮らしている環境で浴びる線量率・線量、すなわち自然放射線だ。けっして'ゼロ線量率、ゼロ線量'ではないことにご注意。右にいって、「高線量率・低線量」も日常の光景だ。たとえば、X線(レントゲン)撮影がこれ。CTだと少し線量が増える。ここから、どんどん線量が増えると(図中、下にいく)「非日常的」になってきて、がんの放射線治療、広島・長崎やチェルノブイリの世界へと入り込む。

「さっきから、100ミリシーベルト以上ではがんになる可能性が増えると言っているのは、この高線量率の話なのです。一瞬とか、ごく短時間で浴びた場合です。この'高線量率ワールド'のことは広島・長崎や、チェルノブイリの調査結果、それを裏づける動物実験による研究成果、理論づける分子生物学の知見、たとえばいま話した染色体転座など、豊富なデータがあり、いろいろなことがよくわかっています」と稲葉教授は言う。

福島の問題は、図中、低線量率・低線量から下に向かう、低線量率・(蓄積)中高線量だ。ここに入るのは、「高バックグラウンド地域」と呼ばれる、もともと自然放射線量が高い地域だ。日本にもラドン温泉の周辺などで自然放射線が高い。こうした地域に住むと、低線量率であるが、長年の間に蓄積されて比較的高線量の放射線を浴びることになる。そこに暮らす人に対し健康調査も行なわれてきたが、発がん率が特に高いなどのデータは報告されていない。動物実験のデータもある。たとえば、環境科学技術研究所(青森)のデータ。非常に高い蓄積線量でないとがんは増加しない。ただ、高線量率と比べて、疫学データも動物実験データも充実しているとは言いがたい。「高線量率の放射線影響に比べて研究が大変難しいのです」

「福島の方々、あるいは一般の方は、高線量率で1回放射線を浴びるのと、低線量率でじわじわ浴びるのと、合計線量が一緒であれば、じわじわ浴びたほうががんが増えるという印象をもっている人が多いようです」。これは、水俣病やイタイイタイ病などの痛ましい記憶とも関係していそうだ。有機水銀などの重金属の臓器障害が長年継続した結果、重い病気を引き起こした。

「低線量率の放射線の害は、重金属とはまったく違います」と語る稲葉教授。「放射線の害は主に遺伝情報(こういう時にはこうしなさい、と書いてあるマニュアルみたいなもの)が書き込まれている文書であるDNAに傷を入れることです。大切なマニュアルのページが破けたり、コーヒーをこぼして読めなくなってしまうようなものです。

これでは困りますので、すぐに直します。直す能力は非常に大きくて余裕があり、少ない線量(率)である限り、楽勝でその日のうちに直ります。したがって、傷が蓄積されることはありません。ここが、重金属中毒と根本的に違うところで、水俣病などから連想される、日々受けた障害の蓄積という話にはならないのです」

今後も低線量率で長期にわたる被曝の影響を疫学的に研究するのはなかなか困難だろう。そうであれば、これは分子生物学がやるしかない。「今後は細胞レベルの‘低線量率の放射線影響研究’が非常に大事だと考えています。実はこの研究所では数年くらい前から力をいれはじめていたところですが、最大の課題は資金でした。あちこちに働きかけても、なかなか理解が得られなかった。ところが幸か不幸か、福島の問題がおきてしまったことで、資金のめどがつきました。残るは人材の問題。若い研究者を長期間こうした困難な課題に投入してよいのかという迷いがありました。ただ、こちらも2008年頃から稼動させた次世代シーケンサーによって、先が開けてきました。5年前なら低線量率放射線研究と言っても、現実的でないと言われたものが、この機械のおかげで、低線量率の放射線が引き起こす、ごくわずかな変化を鋭敏に読み取れるようになったのです」

かつて二の足を踏んでいた低線量低線量率の放射線影響研究だが、いまのこのタイミングを逃したら、なかなか踏み込めない領域だと稲葉教授は言う。「こうした研究は世界的視野でみれば絶対に必要です。原子炉は世界中にあるのですから、いつかまた何かがおこると考えたほうがいい。そのときに問題になるのは低線量率放射線の長期被曝なんです。また、福島の立ち入り禁止区域の一部は、この先、本当に戻れるかが今後、問題になってきます。私たちは低線量率放射線を必要以上に不安がっているのかもしれないし、逆に楽観しすぎているのかもしれない……それをはっきりさせるためにも、挑戦しなければならない課題であると思っています」

TEXT:冨田ひろみ PHOTO:荒井邦夫
取材日:2011年11月22日


CRN(子どもは未来である)
http://www.blog.crn.or.jp/lab/06/08.html

注釈
【セシウム137】
セシウムの放射性同位体で質量数は137。半減期は約30年(生体内での半減期は約70日〜100日)。

【高バックグラウンド地域】
イラク、ブラジル、インドなど各地にある。通常の自然放射線の10倍にもなる。日本でも面積的には小さいが三朝(みささ)温泉(中国地方)などが有名。

【マウスによる実験】
青森県六ヶ所村にある環境科学技術研究所で、非常に低い線量を400日間マウスにかけた実験を行い、ほとんど目に見える変化が起こらなかったという結果が報告されている。

【次世代シーケンサー】
かつて読み取るのに何年もかかった膨大なDNA配列を、数週で解読できる最新鋭機器。細胞が放射線を感じ取っているかを分析するのにも非常に有用で、従来のDNAチップなどに比べて100倍以上の感度をもつ。