研究紹介

インタビュー

日本で子どもの甲状腺がんは増えないと考えられる分子生物学的根拠

「チェルノブイリで甲状腺がんになった子どもたちは相当高い線量を浴びたに違いありません」と稲葉教授はつづける。一つは風土の違いが大きいという。チェルノブイリでは、庭先で飼育した牛が放射線汚染された牧草を食べ、その牛から搾った乳を煮沸程度ですぐに飲める環境にあった。また、内陸のチェルノブイリ周辺はもともとヨウ素不足の土地で、ヨウ素不足がまねくゴイター(甲状腺腫)が多発していた。日ごろから海藻類を摂取する日本ではあまり見られない病気だ。つまり、チェルノブイリでは半減期の短いヨウ素131をより多く吸収する条件がそろっていたのだ。

分子生物学的な研究からも、チェルノブイリの子どもたちが相当に高い線量を浴びたことは、確実であるという。できた甲状腺がんをすりつぶして遺伝子の状態を検査したところ、ほとんど例外なく「染色体転座」をもっていた。この「転座」こそチェルノブイリ事故が甲状腺がんに結びつくキーワードだと、稲葉先生は図解しながら説明してくれた。

【放射線に対する生体防御:染色体1か所が切れる場合】
放射線に対する生体防御:染色体1か所が切れる場合

放射線ががんの原因となるのは、染色体(DNA)を切断するからだ。しかし、「染色体が1か所で切れる(=傷つく)だけなら生物はきちんとつなぎなおすシステムを起動し、修復します。生命は誕生の日から放射線に悩まされてきたわけで、切れた染色体を修復するシステムは35億年をかけて確立されたものです。染色体が切れたらすぐに直さないといけないので修復のシステムがしっかりできあがっています。少量の放射線をそんなにおそれないでと申しあげたいのは、そうした根拠からなのです」

【染色体が複数箇所で切れる場合(転座がおこる)】
染色体が複数箇所で切れる場合(転座がおこる)

ただ、想定外に大量の放射線を浴び、染色体がいっぺんに複数か所で切れることに生物はいまだ上手に対応できない。つなぎまちがえがおこりやすいのだ。とはいえ、つなぎまちがいの結果、転座がおきたからといってすぐがんになるかといえば、多段階発がんにもとづけば、それはあり得ない。「放射線でできた転座が発がんに結びつく可能性は、何万分の1以下とか、ものすごく低い確率でしかないのです」と稲葉教授は言う。

先にふれた100ミリシーベルトという値は、ここでもからんでくる。「1個の細胞で同時に2か所以上でDNAが切れるというのは、かなりの高線量でないと現実問題としておこりません。たまたまというか、100ミリシーベルト程度は必要ということが実験からわかっています。ただし、ここでいう100ミリシーベルトとは瞬間値です。‘年間で’という累積値のことではありません。一瞬、パッと浴びた量が100ミリシーベルト以上だということです」

原因と結果、どちらの面から見るかでものごとは異なったイメージをもたらす。たとえば交通事故。おきてしまった事故(結果)から見ると、「歩行者に気づくのが遅れたのは、前方不注意だったせいで、それはケータイに気をとられたからだ」となる。現実には、運転中にケータイが鳴るたびに事故がおきるわけではない。「がん」という結果から原因を探っていくと放射線とがんは直結しているように見える。しかし、分子生物学の研究により、放射線の引きおこす出来事が、がんに結びつくまでには多くのステップがあり、生物は各ステップで、がんを防ぐ様々なしくみを用意していることがわかっている。「だからこそ疫学と分子生物学を上手に組み合わせて説明していかないと、なかなか安心していただけないと感じています」と稲葉教授は言う。

注釈
【染色体転座】
染色体が2か所以上で同時に切れると、つなぎなおす際に、つなぐ相手をまちがう確率が高まる。つなぎまちがうと、「転座」など、本来の染色体と違った染色体ができる。

【ヨウ素】
自然界にあるのはヨウ素127。原子炉内にあるのがヨウ素131で、放射線を出してキセノンにかわる。半減期は8日。ヨウ素131は医療用にも用いられる。甲状腺はヨウ素127も131も区別なく取り込む。